魅惑の神薬-4
2010年 07月 24日

これまで「邑田(むらた)資生堂」や「福原資生堂」、「山内資生堂」、
はたまた「新田資生堂」などと様々な「資生堂」名が出て来て、理解出来ない
方も多かったと思われる。
先述した通り、「資生堂」と言えば、現在の化粧品メーカーで有名な
「福原有信の資生堂」を思い浮かべるが、純粋にはこの「福原資生堂」では
「神薬」を製造しなかったようだ。
事実、「資生堂百年史」や「資生堂社史」にも言及は確認出来ず、たとえば
明治5年創業から明治21年までの当時の製品をあげると「きちがいの薬・神令水」
「なかちしらち(長血・白血)の薬・清女散」「口中一切の薬・金水散」
「けはひ薬・蒼生膏」「胸腹一切の薬・愛花錠」「胃腸の妙薬・ペプシネ飴」
「小児躰毒下し」「福原衛生歯磨石鹸」等があるが、その中にも「神薬」だけは
みつからないのである。
しかし、福原有信なしでは「神薬」を語る事はできないほどの深い関係である
ことは間違いない。
福原有信は、国策会社「大日本製薬会社」の設立や「帝国生命保険会社」の創設
者として知られる著名な人物である。
東京大病院勤務を経て、明治4年(1871)海軍病院薬剤官に就任。その後、西洋に
ならい医薬分業を実践するために海軍病院薬局長の官職を退き、明治5年(1872)
に民間事業として新橋出雲町16番地に洋風調剤薬局「資生堂」を創業した。
2Fに診療所を設け、1Fに薬局を置くと云う方式のものであった。
これと平行して、有信は本町1丁目にも「西洋薬舗会社」を開局した。
これは師である陸軍軍医総督「松本良順」に勧められたもので共同経営と云う
形で開業した。
この時点で有信は、出雲町16番地の「資生堂薬局」と本町1丁目の「西洋薬舗会社
資生堂」の2つの資生堂を経営することになる。
「資生堂」と云う社名は、易経の「万物資生(万物とりてなる)」つまり
「万物は徳をもとに生まれる」と云う言葉からとったものと云われている。
有信は、西欧流の正しい医療を提唱し、宮内庁御用達にも任じられ、陸海軍両省
への納品を許可されるまでとなったが、それもつかの間、経営破綻を来たし、
明治7年、8年と相次いで2つの「資生堂」の解散を余儀なくされた。
かくして、「西洋薬舗会社資生堂」は、良順の働きかけで「資生堂」の名称は
残しつつ三井組(三井銀行前身、三井合名会社)に売却され、
一方「資生堂薬局」の方は、有信個人の経営となった。
この「三井資生堂」は、所在地名から「本町資生堂」、「福原有信資生堂」も
所在地名をとって「新橋資生堂」と呼ばれるようになった。
この「福原有信資生堂」=「新橋資生堂」が、現在の(株)資生堂の前身でること
は云うまでもない。
一方、三井が出資した「三井資生堂」は、しばらくの間続き、明治中頃には
「中田資生堂」と呼称が変わり、大正の初め頃に姿を消したそうだ。
また、他の「牛込資生堂」は、本来「西洋薬舗会社資生堂(本町資生堂)」の
製薬所「副会社資生堂薬舗」として知られ、「西洋薬舗会社資生堂(本町資生
堂)」解散後は、三井系列から離れ、当時牛込早稲田にあったことから
「牛込資生堂」と呼ばれるようになった。
これが「邑田(むらた)資生堂」の前身と考えられる。
創業者・邑田弥平は、明治35年に没し、その後、弥平の呼称は3代まで踏襲
されたと云われている。
「西洋薬舗会社資生堂(本町資生堂)」が解散の際、関係者がそれぞれ
売薬権を分取し、田中久右衛門が「室町資生堂」を経営。
「山内資生堂」は、山内作衛門の経営となった。「室町資生堂」は、後に
田中久右衛門が権利を新田長次郎に譲渡したことから「新田資生堂」の名称で
しばらく存続したけれども、昭和18年の企業整理で田辺製薬に売却されている。
その他、京都四条通御旅町にも「響庭(あえば)資生堂」や台湾の薬種業を
一手に収めた「台湾資生堂」があり、さらにはそれぞれ「資生堂」の薬剤師が
独立分離して同名を名乗るケースもあったようだ。
東京市神田区猿楽町の「笠井資生堂」などが、その例である。
こうした、複雑な事情の中で複数の「資生堂」が存在し、それぞれがいくつかの
タイプの「神薬」を生み出した。
よって、明治期から大正期にかけては、同じ資生堂でも異なったタイプのびんが
作られたようで、びんだけで特定することは非常に困難である。
庄司先生も手持ちのびんに対しての解説は、憶測の範囲を出るものではなく、
今後のさらなる情報に期待したいと述べている。

これは、保壽堂製薬の保壽神薬。

こちらの3色神薬は、岩瀬売薬会社のもの。


こちらは、東京市麹町区有楽町・全国購買組合連合会の「組合神薬」である。

戦前の昭和期を代表するものであった。
この組合連合会(全購連)は、その名の通り家庭薬を全国各町村組合を通じて
組合員に配給する連合機関であり、この「組合神薬」もその家庭薬のひとつで
あった。

びんの表は「組合神薬」、裏には「共存同盟」と印された桜マークのエンボスが
特長である。
この「組合神薬」も富山売薬の神薬同様、戦前・戦中・戦後にかけて全国的に
普及していたと思われる。
先に紹介した大きいサイズの神薬とほぼ同形、同容量と思われる。


25〜30gの神薬

篆書体の神薬。



もう数回、神薬特集やります。
もうしばらくご辛抱を・・・・
所蔵すべて:BOW会長
出典と云うより、ほとんど抜粋:
謎の売薬「神薬」(第一部〜二部) ボトルシアター館長 庄司 太一
by hbc_nkzk2
| 2010-07-24 22:57
| 神薬

